それ、照れます!

照れたら書き、書いたら照れる。三十超えて頬を赤らめ、ひとりゆく。筆者は格子「照論文 」

似=照

 中谷美紀さんはいいけれど、中谷美紀さんに似ている人って、なんかしんどい。これは外見以上に、内から出るなにかのことを言っている。

 

 上地雄輔さんはいいけれど、上地雄輔さんに似ている人って、なんかしんどい。これは髪型やあごヒゲ以上に、喋り方、とりわけ語尾の感じのことを言っている。

 

 片岡鶴太郎さんはいいけれど、片岡鶴太郎さんに似ている人って、なんかしんどい。これは絵のレベル以上に、巨匠感のことを言っている。

 

    しんどいというより、照れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

登場の仕方

 

 コンサート会場内に、歌手がバイクで現れるあれ、めっちゃ照れる。

 

 世界初ならいいけれど、二人目以降は、そりゃ照れますよ。

 

 

畑に波。喫茶店の彼。

 ホテルマン並の所作で高級な仕事をする庶民的な喫茶店のウエイター氏。黒い靴は黒く、スラックスは紳士的、白いシャツは白く、パリッパリ。が、その背に透けたインナーが水色のTシャツでサーフ系ブランドのロゴ。

 

 なんで? なんでなん。

 

 背は高かく、頭髪も短く刈られ清潔。背にはサーフ系ブランドロゴ、どかーん、いや、ざぶーん。

 

 なんで? なんでなん。

 

 百歩譲って湘南のカフェならまだしも(早朝波に乗ってから出勤するライフスタイルがあるのかもしれない)、練馬区の果て。なにかにノッてることはキレのある接客を見ればわかるのだが……五分歩いたらトウモロコシ畑、波はない。

 彼の母がスーパーの二階で買ってきたものなのだろう。男というのは、やっぱり背中に出るのだね。

 おっと、書き忘れるところであった。そう、私は、照れた。 

 

 

 

 

背中で本当に語る人。あるいは、語らせるオーナー。

 

 とある焼き鳥屋さんの店員さんが着る制服の黒いTシャツの背中に、

 『努力とは人に見せないもの』

 との言葉が縦に三行、白でプリントされていた。剛筆も剛筆。地方から上京して何十年も歌をうたいつづけてきたミュージシャンが音楽だけにとどまらず、書道家としても作品を作っています風の大和魂込めました然とした基礎がないスタイルでプリントされていた。努力とは、と。

 焼き鳥はリーズナブルでそれなのに美味であったが、だれが注文を聞きに来てもだれが料理を持ってきても、愛想がすこぶる悪い。それでいい。美味ければいいのだ。現に私はその店で楽しく過ごした。これ以上語ることはなにもない。

 『笑顔とは人に見せないもの』

 そう、安売りする必要はない。私は彼らの笑顔が見たいのだろうか。いや、見たいのだ。週一で行く。この話を無論冷静に書きはじめたつもりではあったがどうして、告白せずにはいられなくなり、書き、いま、照れている。

 嗚呼、相対性理論。脳髄は混乱中である。

 

 

 

 

 

朝ドラ『ひよっこ』の題字

 『うすぴた』のパッケージにちょっと似ていると思いました。

 

 「あのこいまごろどうしてる〜」という主題歌がその箱からも聞こえてきました。

 

 以上です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コピーバンドマン

 東京事変のコピーバンドやって、得意げな人、ちょっと照れる。

 

 ZAZEN BOYSのコピーバンドやって、オリジナリティぶる人、わりと照れる。

 

 エアロスミスのコピーバンドやって、世界を語る人、好感持てる。

 

 この感情の波の高低差を発見した途端

 

 ごめんね、気持ちがなくなったの。

 

 愛子からのメールはサーファーのようにかろやか

 

 Fを抑えられない人とは結婚できないの。

 

 抑えるべきところを僕は抑えたい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

方言を濃くしたがるマイルドヤンキー

 県庁所在地にて。

 その県の北部か南部か東西の左右もわからぬが、どうもその最大の街にて周囲より一段も二段も濃い方言を話す若者が少数いることを私は確認している。街であればあるほど、方言は薄くなるというのか、柔らかくなるというのか、まあ都会的に少しはなるものなのだが、それは時々聞こえてくる。山奥の団塊世代が話すような言葉を操るマイルドヤンキーの咆哮。あるいは慟哭。当方、東京に居を移して久しいが長く暮らした街を例にしてみる。

 

 一般的な若者の場合(男子)。

 「一口ちょうだいや。ええじゃん、お前の美味しそうなんじゃもん。お願いじゃけえさあ。ちょっとでええけ。ねぇねぇ」

 マイルドヤンキーの場合(男子)。

 「一口くれぇや。えかろうがぁ、わりゃぁうまそうなもん一人で食うてからに、おぉ? ええけぇ、ちぃとくれぇや。のぉ」

 

 一般的な若者の場合(女子)。

 「うちあの子に言ったんよ。そしたらね、あんたが食べんさいやって言われたんよ。ねぇ、どう思う?」

 マイルドヤンキーの場合(女子)。

 「うちあれに言うたんよ。ほんならよ、われが食べれぇやぁ言うてからにうちもほんま頭に来たが、あんたぁどがに思うね? おぉ?」

 

 両親ないしは祖父母の影響かなとは容易に思うのだが(鎧であることはもちろん)、どうしてだろう。マイルドヤンキーは県庁所在地なる都市部においても言葉を濃くしたがる。映画好きなのかもしれない。郷土に対する誇り、言葉の継承、そういったものもあるかもしれないし、もしかしたら、いや、特に探求しようとも思わない。

 さて、マイルドでないヤンキーはどうなのか。これがなかなかどうして逆なのだ。彼ら彼女らは、濃くならない。意外と、標準語がちと混じる。なんなら少し中性的になる。見た目はデニスロッドマンのようでも、

 「一口くれやぁ。いいじゃん。おいしそうなの食べてぇ。欲しいなぁ。ちょーだい」などと言う。

 本当の不良は自らを怖く見せる必要を持っていない。むしろ、かわいく見られたい。マイルドヤンキーが市内中心部のドトールやマックでおらおらと方言を濃くするのはかわいいもので、まちがってアフタヌーンティーなんかに入って、さらに濃く、限界まで濃くなってゆくのは愛くるしいものがある。

 「なんやこのマカロン言うんは。おぉ? わしゃこがなんよう食べんでぇ。まあほいじゃが、しょうがないよのぉ。ごうにはいったらごうにはいらにゃのぉ。おい、食うたらデオデオ行ってコテ見ようや。ベスト電器と比較じゃの。マカロン、案外美味いのぉ。そういやぁ、フタバ図書でpierrotのアルバムも買うてからにゃのぉ」

 

 見かけるたびに、私は照れる。思い返すたびに、私の心は温まる。