それ、照れます!

照れたら書き、書いたら照れる。三十超えて頬を赤らめ、ひとりゆく。筆者は格子「照論文 」

なにがし

名実ともにまったくないのにハットを被り

  

名実ともにまったくないのにブーツイン

 

名実ともにまったくないのに革風の大きめトートバッグ

 

西武新宿沿線に住んでいるのを隠し中央線の話ばかりする彼をだれが揶揄できようか

 

アルタ前で別れようとする彼をだれがJR新宿駅まで連れてゆけようか

 

マックにゆくからと聞かない彼にだれが西口や南口のマックに連れてゆくことができようか

 

知らない顔ばかりが知ったような顔をして、照れだけを撒き散らかす

 

信号は今夜もひとごとだね

 

 

 

 

 

質問と答え

「君の目標は?」

「はい! 私の目標は笑顔で終われることです!」

 

 笑顔で終われる目標を私は知りたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すべてを凌駕する言葉

 さらりとものを言える人は恰好がいいものだなとつくづく思う。言うぞ言うぞと荘厳な雰囲気を纏ったっり、どうやどうやと衒学パフォーマンスに自ら頬を緩めたり、あなたのために言ってやっていると言わんばかりの勢いで、でも実は自分に言い聞かせているだけの相手置いてけぼりの人は、ちと怖い。世の中にはやっぱりいろいろな人がいるもので、心理学的観点からばかりものを言う人もいれば、スピリチュアル的観点、ビジネス的観点、文学的観点、生物学的観点、根性論的観点、量子論的観点、オカルティズム的観点、歴史学的観点、統計学的観点……人間の目は基本的には二つ以上ついていないからというのが理由だろうか、三つも四つも観点を持ち出す人はいない。ただ、持っている二つのうち、相手の二つに対し、勝てる強いほうを手にし、剣先を向ける。

 所詮、論点が定まっていない限り、公式の場で論議しない限り、プライベートな世間話では相容れないのが常だろう。同じ観点を持つ者同士ならば問題もないかと思うが、それが違うとなると。LINEに残るやりとりは痛々しいものになろう。相手が知る由もないような言葉をわざわざ使ってみたり、へんちくりんな例え話を持ち出してみたり、結局自分の話がしたいだけであったり(大抵、異性の話)、ろくな会話にはまずなり得ない。お互い、小難しい痛みを無用に得るだけだ。

 だが、すべてを凌駕する言葉、その存在にぼくは気がついた。

「V字回復」

 みな、人生を暮らしを向上させたいのだ。

「V字回復」

 お金ほしい、病気治したい、好きな人とどうこうなりたい、出世したい。

「V字回復」

 いかなる論者も、ここへ向かっているのだ。

「V字回復」

 

 普段の会話で「V字回復」をさらりと言える人は恰好いい。ニュースキャスターでもないのにだ。経営陣でもないのにだ。なんの論も学も力もないのにだ。けれど、それを言えるのだ。ぼくはむずがゆくなるほどに照れる。ぼくなら言えない。今後も言わない。照れて照れて、どうにもどうにも。

 自分の働く会社の数字が「V字回復した」と、中卒の弟が語っている。

 シャキーンと音が聞こえる。

 すべてを凌駕する音。

 

 

◯◯◯◯tokyo

「◯◯◯◯tokyo美味しいよ」

「◯◯◯◯tokyo楽しかったよ」

「◯◯◯◯tokyo綺麗だったよ」

 

 それよりも、なによりも、tokyoのイントネーションが気になってその人の話は覚えていない。東京ではなく、tokyoなわけだから、その音階は理解はしている。◯もたいがい英語なわけで。

 けれど、ナチュラルに「◯◯◯◯tokyo」と言える人は都会的だなと感心が止まらない。いや、正直、照れるのだ。ぼくは地方から東京に出てきて十年以上になるが、方言は出ないとはいえ、お上りさん根性はなかなかに消えない。だからと結論づけられる。それで構わない。

「東京! 狂った街〜」とロック高らかに歌うことにはなんら抵抗もないけれど、例のやつは、

「◯◯◯◯tokyoっていう名前のお店あるじゃん?」くらいに水で割らないと、ぼくはまだ発音できない。

「◯◯◯◯tokyoいいよね。おれもこのあいだ行ったよ。インスタあげといたし」ストレートで言える人がまばゆい。それを言う人は男女問わず、グレーのスニーカー履いて、クラッチバッグ小脇に抱えて、チェスターコートを着ている傾向にあるように感じ、この気づきがこの照明を助長させているようにも自分で思う。東京は絶対的に洒落ているのだ。江戸の頃からそうなのだ。いまにはじまったことではない。これでいいのだ。明るい都市なのだ。

 実際、地方の人も「東京◯◯」という銘菓でもないお菓子をお土産でもらうより、「◯◯◯◯tokyoいう所はどがなっとるん?」話のほうが聞きたいのではないだろうか。

 こんなことばかり考えているぼくは、だから、この東京砂漠でひとり寒い思いをしているのかもしれない。今夜はスープだ。スープがいい。

 

 

 

 

 

飲むところ。あるいは、彼の数字。

 からあげが名物だという居酒屋で友人と二人で酒を飲んでいた日のこと。隣の四人掛けのテーブルに、案内された三人組の若い男たちがやってきた。それぞれが勢い良く、煙草、ライター、スマートフォンを置きバタバタと音を立てる。座るなり、ひとりが向かいの二人に対して開口一番。それは開店間もない静かな店内に大きく響いた。

「おれ、八連勤明けだかんな! 八! 八連勤やってやったよ! やっぱさ、居酒屋は働くところじゃなくて、飲むところだよ!」

 おしぼりを店員さんから受け取りながら言うセリフではないことに、『照れる』とわざわざ言葉にするまでもない。告白すると、このファーストタッチで、ぼくはビールを軽く口から吐き出している。友人も破顔させられている。耳から侵入してきた言葉の微細な粒子で、我々の神経伝達物質は一瞬にして狂った。

 注目したいのは隣人が放った無垢ではなく、その数字だ。

 お疲れ様でございますと、最大の敬意をまずはぼくから彼へ送りたい。ブラックだなんだという言葉があちこちから聞かれ、働き方改革などという言葉が永田町方面から聞かれたりする昨今。八はしんどい。六でもしんどい。折に、年始の話である。八の彼は、年の瀬から休みもなく働いていたのだ。どうしても休む人の分まで、仕方がないと働いたのだろう。彼のような人がいなければ、年末年始、居酒屋で楽しい夜を過ごすことはできない。感謝だ。

 

 彼らが囲む卓上に飲み物が運ばれてきた。乾杯。八の彼の手にカルーアミルク

 

 乾杯を終えた彼らは一斉に煙草に火をつけ、満足気な顔だ。そして、三つのスマートフォンが卓の中央に。どうやらゲームに興じている様子。いくつかの注文をし、遊びながら、食べながら、紫煙をくゆらさせながら。

 八の彼がこれから合流してくるもうひとりに、電話でお店の場所を説明する。「あそこの通りの、あの店の前の方にある、からあげ屋だよ。からあげ屋。ううん、違う。からあげ屋。そうからあげ屋。あった? そうそれ、そのからあげ屋がこのからあげ屋」

 混み合いはじめた店内の音が一瞬割れたよう。モーゼの十戒のごとき風景が店の入り口に現れた。彼らは四人になった。飲み物がひとつ注文され、スマートフォンは四つになり、煙草も四本になり、お酒も四つになった。八の彼の要求により、灰皿も四つになった。

 それから、これといった音沙汰はなかった。ぼくも隣人たちに気をとられることなく眼前の話題に花を咲かせていた。

 しばらくすると、隣で会計がはじまっている。八の彼が言った。

 

「千五百円でいいよ! 千五百円だけ払ってくれたら、おれすごい助かるわ。八連勤したからね、細かいのはおれ払いたい。むしろ払わせて! いやあ、今度の給料日マジで楽しみだわ!」

 

 無人のテーブルを見て、地球から人類がいなくなったらこんな感じになるのかなとぼくは思った。山盛りの四つの灰皿、レタスが残った皿一枚、氷もない溶けた水もない三つのグラス、半分残ったカルーアミルク

 自尊心はきちんと持ち歩いているらしい。

 テーブルの片付けとセッティングに来た、若い女性の店員さん二人の会話がそこにある。

「ここ、ドリンクのおかわりあった?」

「ううん、ない。一杯だけ」

「からあげは?」

「一皿、注文あったよ」

「ひとり一個か」

 

 

 

 

「その店はさ、塩で食べさせるんだよ。な? な? 美味そうだろう? やっぱ、そういう店は塩で食べさせるんだよ」

 

 フェイストゥフェイスでこう言われると、破顔を堪えるに耐えない。こちらは照れて照れて、頬が焼かれそうである。頼むから黙ってくれとの願いが止まない。どうか彼の来世はナメクジでありますようにと重ねて願う。

 

「食べさせてる」わけでもなかろう。

「オススメ」しているだけだろう。

 

 こういう男の持つカバンにはだいたいイタリアの国旗色したリボンがついている。

 

 ポン酢でいい。

 

 

 

 

指名ございますか

 美容室が苦手だ。美容師さんも。これは、彼らや彼らのいるお店が悪いという意味ではない。美容室を知って二十年ほどになるかと思うが、その間、もちろんいくつもの店、人に切ってもらっている。床屋でスポーツ刈りにしていた小学生の頃のことを思いだしてみると、苦手意識は一切なかったように思う。土曜日に学校から家に帰り、うどんをすすりながら吉本新喜劇を見て、二千三百円を母から受け取り、理髪店のあの独特な、マスターの体臭と哀しみを混ぜ合わせたような液体の臭気を鼻に溜めながら出しながら、硬い革のソファでゴルゴ13を読みつつ順番を待ち、友達と遊ぶ時間が次第になくなってゆく焦燥で首を痛める。切っても切っても大きくなる頭を面倒に思う程度で、特に店の居心地が悪いわけではなかった。

 

 いつからか美容室に行くようになった。どの店もぼくは数回ずつしか行くことができなかった。どこも同じストレスを感じる。鏡の中で目を合わせて話しかけられ、鏡の中の美容師さんの目を見て返事をしなければならない。照れるから、なるべく見ないような喋り方をしてしまうものの、さすがに時々は、自分の髪を切ってくれている人の目を見ないと無礼者になってしまう、生意気な野郎だと思われるに違いないとの懸念に従い勇気を持って鏡を見ても、彼のその目はどこかへお出かけしている。よく出かける、アクティブな眼球。

 

「最近、調子どう?」いきなり聞かれても、「なんの?」とは言えない。「ああ、そうですね。まあまあです」となる。「なにが?」と聞かれる。毎回。

 

「髪、伸びたね」改めて言われても、「伸びたから来たんです」とは言えない。「ああ、そうですね。髪、伸びるの早い気がするんですよね」となる。「普通だよ」と言われる。毎回。

 

「車、好きなの?」逃げ込んだ雑誌のページにまで入ってこられても、「好きです」とも「好きじゃないです」とも言えない。「ああ、そうですね。まあ、車、はい」となる。「俺、このあいだランエボ買ったのよ。わかる? ランサーエボリューション」と言われる。テレビゲームで知っていたそのスポーツカーの名前に、かっこいいですよねとうかつにも反応したが最後。日を改め、一度この副店長のおじさんにバイト終わりの深い夜、ドライブに連れてゆかれた。青いランエボは市内中心部からずんずんと暗い方へ。ジェットコースター風のシートベルトを装着させられ、興奮したふりをしつづけた十八歳。ぼくが行かなくなった代わりになぜか母がその美容室へ行きはじめた。バツイチ元ヤン女の野生の嗅覚か。父はかつてGTーRに乗っていた。歴史は繰り返す。

 

「はい、お電話ありがとうございます◯◯美容室です」

「あ、カットの予約をお願いしたいのですが」

「ありがとうございます、ご予定は?」

「こんどの日曜日の午前中空いてますか?」

「こ、ん、ど、の。日曜日……午前中……でございますね? ご指名ございますか?」

「あ、あの、指名というか、だれでもいいんですけど、いつも店長さんに切ってもらってまして……」

「店長ですね、かしこまりました。こ、ん、ど、の。日曜日、十時から空いてますがどうでしょう?」

「あ、じゃあ、それでお願いします」

「はい、では、お名前お願いいたします」

「△△です」

「ああ、△△さん! こんにちは。どうも、ご予約ありがとうございます」

「あ、いえ、はは」

 

 美容師さんが二人しかいない小さなお店で、たまたま一番最初に切ってくれたのが店長さんだったというだけのこと。その次に、電話予約で、このあいだ店長さんに切ってもらったんですけど別にだれでもと伝え、また店長。次も、そのまた次も、次も次も。

「最近調子どうおじさん」じゃない、電話口のあなたを指名したい。消去法で。あなたもあなたでやる気ないオーラ出過ぎ。そのくせシャンプーの時、はりきって嫁さんの愚痴話すのはやめていただきたい。「△△くん、奥さんと喧嘩する?」ぼくは結婚していないし、彼よりも年上である。

 

 床屋にはないこの一連の親密さが、ぼくにはたまらなくたまらないのだ。

 

 どこのお店にいっても、大差はなかった。たとえば、有名店や原宿だ青山だ表参道だといったところのお店や、カリスマがいるところや、高級なところに行けば解決するのかもしれない。そうは思わない。むしろ、技術と値段に引っ張られ、照れも数段アップするだけだろうとぼくは考える。まず、その店のドアを開けられるだけの髪型をしていないのだが。

 

 自分で髪を切りはじめて、二年が経つ。

 行くのがいやなら、自分で切れというお話。

 歴史を繰り返したくないのなら、自分が変わらなければならない。

 ぼくは文句を言っているのではない、照れるだけなのだ。

 

「服を買いに行くのに着る服がない」と嘆いた古い友人のことを、いま思い出した。